[知楽市の履歴書](4)『自閉症者とパソコンと私』
[知楽市の履歴書]:2003年に設立した知楽市の20年を振り返ります。
今回は、知楽市のメンバーとして発達障害者支援プロジェクトで活動されていた、故 杉江 裕子さんが2005年に書かれた『自閉症者とパソコンと私』 を掲載します。
自閉症者とパソコンと私
平成17年(2005年)7月15日
ケーネット知楽市
杉江 裕子2004年5月、私はケーネット知楽市というNPOに出会った。
2年前からパソコンボランティアをしていた私をある人が紹介してくれたグループだった。この時はまだIT関係のNPOだということしか知らなかったが、例会であるアイディアミーティングに参加することで活動の方向が少しずつ見えてきた。
「シニアITサポートデスク」というコミュニティを掲げているだけあってそのメンバーの多くはIT関連会社のOBだった。
殆どが男性でまるで会議のような雰囲気の例会は、専業主婦である私には意気の詰まるものだった。私はこの環境には合わないと活動をあきらめた。
2004年6月、例会に出なくなった私に再度、Tさんが声をかけてくれた。少し女性を増やして柔らかいものにしたいという私の意見を伝え、改めて私の新しい挑戦が始まった。
2004年7月、「はぎの郷」という自閉症成人施設とケーネット知楽市でパソコン教室の企画が始まった。自閉症が何かさえ知らない私にとっては正に未知との遭遇だった。
「はぎの郷プロジェクト」と名づけられた企画に知楽市全員で取り組むこととなった。
2004年8月、女性スタッフとして私の知り合いを誘った。興味を示した彼女たちは前面的に協力してくれた。そして例会も彼女たちの参加で、会議から茶話会の様相へと変化していった。
2004年9月、自閉症の勉強会が始まった。自閉症の専門家たちに話をきく。施設を訪問して彼らの日常に触れてみる。インターネットで情報を収集する等など。私にとってはどれも初めての経験で大変だったが、とても有意義な時間だった。
この時間を作るために家庭を犠牲にしては専業主婦のボランティア活動は続かない。家族に迷惑をかけない楽しみ方を実現するためにいつもの倍のスピードで家事をこなした。
お陰で昼寝をする暇がなくなったが、睡眠不足でも更年期にはこの方が良いらしい。
2004年10月、施設のイベントにふらっと参加してみた。私の隣にM君が座る。何を話していいか分からず少し困った。あちこちで奇声が聞こえる。私の日常にはありえない光景だったが嫌ではなかった。
彼らとパソコンなど出来るのか不安を抱えていた私だったが、少し気が楽になった。
いよいよ施設スタッフの方から担当する相手を決められた。M君だった。彼は重度の自閉症らしい。施設スタッフと相談しながら彼のカリキュラム作りが始まった。
家でインターネットをやっているらしい。ワープロは触ったことがあるので文字入力は出来る。バスに関することが好き。パニックの時はどうしようもない。など聞かされる全てが初めて会った時の彼の印象と違い過ぎた。
黙って座っていれば普通に見える。見た目の障害がないのは聴覚障害の人と似ているかもしれない。うっかり話しかけた時の反応の違い。想像と違った反応をすれば誰だって驚くはずだ。そんなリスクをいつも背負って彼らは座っている。
2004年11月、「トロルらく楽パソコンクラブ」と名づけられた教室がスタートした。生徒10名、講師5名、他にハードウエア担当やサブ講師、施設スタッフなど、生徒に対するスタッフの多さに外部からは驚きの声が上がった。
といってもスタッフ全員が自分も楽しんでいるという意味合いが強い。仲間が集まって何かを成し遂げる心地よさの中に全員がいた。
2004年12月、緊張の糸が少しずつほぐれていく。生徒と講師のコミュニケーションも様々な形で生まれている。私とM君の間でもインターネットを使った新しいコミュニケーションが誕生していた。
彼が好きなサイトを見せてくれる。私の言葉を検索してくれる。自分の予定を書いて私に持って来てくれる。ありきたりのようだが彼にとっては凄いことらしい。施設スタッフも関係者も感動してくれていたようだった。
私自身は感動というよりも彼との言葉遊びを楽しみ、彼がやりたいことを推測し、彼に合うカリキュラムを用意することが楽しかった。
2005年1月、彼の大好きなバスの画像でカレンダーを作った。印刷したカレンダーを大事そうにファイルに綴じて持ち歩く彼の姿が嬉しかった。
自宅から車で30分、雪道だと小一時間の道のりを通うことは、私にとって楽ではなかったが彼に会うために頑張れた。
2005年2月、私にはもう一人担当した生徒がいる。彼女はアスペルガー障害で、在宅で生活している。丁度私の娘と同じ年頃だ。パソコンの入力に関しては平均以上。指示することは全て完璧にこなせる。これでどこが問題なのか初めは分からなかったが、彼女表情の堅さが全てを物語っていた。
この頃になると彼女の表情に変化が現れた。「かわいい」という言葉をかけられると嬉しそうに笑う。施設スタッフからも考えられない変化だという感想があった。
私一人とのコミュニケーションではなく、スタッフ全員が作り上げた教室の雰囲気が彼女を変えていったことに、コミュニティの大切さを痛感した。
2005年3月、16回の全カリキュラムを終え、パソコン教室はひとまず終了を迎えた。終了式は笑顔で盛り上がった。M君からは「OB会で頑張ります」という言葉をもらった。パソコン教室以外でも「延長おねがいしま~す」とスタッフに言っていたそうだ。
生徒として参加した全員がパソコンを続けることを希望してくれた。この期待に是非応えたいという気持ちを講師の誰もが持ったはずだ。
2005年4月、パソコン教室の第2期と合わせて第1期卒業生のOB会の検討、在宅者とその家族のためのサロンが始まった。
サロンは、在宅者が家から外へ出るきっかけと家族のストレス発散の場の提供のため、すぐに始めることになった。
2005年5月、別の講師が担当していた在宅者が「仕事をしたい」と言い出した。うつむきがちだった彼が顔をあげサロンへ入ってくる姿は、昨年の11月の時には想像も出来なかった。お母さんは本人の前では精一杯平静を装い、私たちの前では嬉し涙を流された。彼もまたアスペルガー障害で周りから理解されないことで苦しんでいたからだった。
2005年6月、「トロルらく楽パソコンクラブⅡ」が始まった。今度の相手は寡黙で几帳面なS君だ。2回目彼が笑った。3回目彼が終了後ひっくり返った。そんな姿をスタッフは始めて見たそうだ。普段はベッドの上でも正座をしているような人だとスタッフは言っていた。彼もまたパソコンによる表現が嬉しかったのかもしれない。
2005年7月、M君とのメール交換を始めた。OB会に出てくるM君への課題を与えてみた。内容はスタッフが補ってくれているようだが、彼は私の課題を律儀にこなしてくれている。私が施設へ行く日は、入り口の椅子に腰掛け私を待っていてくれる。といっても私の顔を見るとすぐにどこかへ行ってしまう。まるで小学生のようだとスタッフ全員が笑顔になる。
サロンでは、彼女にホームページを教え始めた。二人で勉強していこうという感じだ。彼女に私がどんな人かと尋ねると「わかりやすい人」という答えが返ってきた。私自身も彼らと通じるところがあるのかもしれない。
知楽市のメンバーや友人たちは、「なぜそんなに頑張れるの?」と私に問う。私は「カルチャーセンターよりも楽しいから」と答えている。
普通の更年期の専業主婦ならば多分、家事の合間を趣味の時間に費やすのだろう。そういう意味で言えば私にとってこの活動は趣味の範囲なのかもしれない。
私は、家庭に影響がない程度に楽しく続けられればそれで良いと思っているが、今後出てくるはずの団塊の世代のIT関連OBたちは、生きがいとして自分のスキルを活かす場を望むはずだ。その場の提供ができるNPOとして成長していく知楽市を私は楽しみにしている。
パソコンクラブもサロンもまだまだ小さいコミュニティだが、少しずつ人が繋がり補いそして楽しく安心して過ごせる空間はこんな些細なことからスタートしていくのだと思う。
それが少しずつ増幅していけば、素晴らしいコミュニティが形成されるはずだ。
- 知楽市ホームページへの掲載にあたり、杉江裕子さんのご家族にご了解をいただきました。ありがとうございました。
(5)ケーネット知楽市とともに歩めた幸運と、出会えた皆様に感謝 へ続く
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